重ベンゼン


 NMR測定をしていて気を付けなければならないのは、試料溶液の化合物の状態を見ているということです。言い換えると、溶けないものの姿は見ることはできません。

 ある学生が扱っている化合物は反応性が高く、色々な試薬と反応することが分かっていた。そこで、ニトリル類と反応しないだろうかということになり、試しにNMRチューブ中で混ぜてみることにした。化合物の重ベンゼン溶液に等モルのアセトニトリルを加えると、シングレットのシグナルが 0.5 ppm 当りに現れた。反応したとしても、普通は2 ppmよりも低磁場側に出るであろうに、こんなに高磁場側に出るのは、何かとてつもない現象を捉えているのかもと、少々興奮してきた。さらにアセトニトリルを加えてみると、先ほどのシグナルが大きくなって観察されたことから、その気持ちは確信に変わった。
 その結果を持って先生のところに行って説明をして、どのような現象が起こっているのかを2人でしばらく考えていた。ふと、先生が「アセトニトリルに含まれている水ちゃうか」と言った。学生は実験室に戻り、サンプル瓶に入れたアセトニトリルにベンゼンを1滴垂らしてみた。すると、その液滴は混じり合うことなくサンプル瓶の壁を滑り落ちて底に達した。そして、アセトニトリルのシグナルを見ていたと思っていたが、溶けていないために見えておらず、アセトニトリル中に含まれている水のシグナルだけを見ていたことを理解したのであった。

目の前の景色が全てと思ってしまうことがよくあります。実際には、ごく限られた部分しか見ていないということを、常に念頭に置いておかなければなりませんね。