蜃気楼


 反応をしていて何か新しい化合物が得られた時は興奮します。目的とする化合物でなくても、つい追いかけたくなる気持ちが湧き上がってきます。これも実験の醍醐味の1つでしょう。

 ある学生は反応混合物のNMRを測定するたびに8.3 ppmにシングレットのシグナルが現れることが気がかりであった。「このシグナルは副生成物やろか?それとも中間体?」などと思いを巡らせてみたが、そのようなシグナルを与える化合物の構造がなかなか思い浮かばない。そこで、このシグナルの持ち主を捕まえてやろうと、カラムクロマトグラフィ-で分離を試みた。しかし、分離するどころかきれいに無くなってしまうのである。逃げられると捉まえたくなるのは、誰しも同じである。ところが数回のカラム処理は、ことごとく失敗に終わった。
 ある日、1度クロロホルム抽出した反応系をもう1度抽出してみた。抽出の回数が増えれば、その分手元に残る化合物の量は減るはずである。1回目の抽出後のNMRで観察された8.3 ppmのシグナルは、2回目の抽出後には、小さくなるどころか大きくなっていた。「これは反応でできたものやない!」と考えた学生は、測定したばかりのNMRチュ-ブにクロロホルムを1滴垂らして再度NMRを測定してみた。すると、大きなシグナルが8.3 ppmに現れたのであった。

重クロロホルム中のクロロホルムは7.3 ppmに現れることは常識的に知っている人は多いと思いますが、重DMSO中のクロロホルムが8.3 ppmに現れるということは案外知らないものです。溶媒が替わると、ケミカルシフトが大きく変わるということをよく理解しておきましょう。